少年jump的日语介绍

栏目:资讯发布:2023-10-09浏览:3收藏

少年jump的日语介绍,第1张

  『周刊少年ジャンプ』(しゅうかんしょうねんジャンプ、WEEKLY JUMP) は日本において集英社が発行する周刊の少年向け漫画雑志。1968年に『少年ジャンプ』として月2回刊志として创刊、翌1969年より周刊となり『周刊少年ジャンプ』に改名。周刊志の最高発行部数を记录した。略称は「ジャンプ」、「WJ」 など。

  概要

  1968年(昭和43年)7月11日に『少年ジャンプ』の名称で同年の8月1日号として创刊。创刊时は月2回(第2・第4木曜日)発売、1969年(昭和44年)10月から周刊化された。2003年5月までは毎周火曜日発売、2009年现在は毎周月曜日発売[1]。シンボルマークは海贼マーク(ジャンプパイレーツ)。1995年に653万部という漫画雑志の最高発行部数を记录した。

  雑志キーワードは「友情」「努力」「胜利」。すべての掲载作品のテーマにこの要素(を意味するもの)を最低1つは必ず入れることが编集方针になっている[2]。これは同志の前身とも言える月刊漫画雑志『少年ブック』の编集方针から受け継いだものであり、元は小学4・5年生を対象にしたアンケート(「一番心あたたまる言叶」「一番大切に思う言叶」「一番嬉しい言叶」)によって决められたものである[3]。

  基本的に掲载作品は格闘・アクションやギャグ・コメディ、スポーツ物などが主流であるが、SF・ファンタジーやラブコメ、社会派・ドキュメンタリー作品なども数多く掲载された。

  创刊时に后発の少年漫画志として、当时の人気漫画家を确保出来なかったため、连载阵のごく少数を除き、全て専属契约の新人で揃えることになった。これは新人発掘に効果を発挥し、『ジャンプ』跃进の原动力となった。この方针は、创刊から40年以上経ち、周刊少年漫画雑志で最大部数を夸るようになった现在も継承されている。また、本志は初の漫画専门志であり、この人気により少年向け総合志だった他志も漫画専门志へと移行するきっかけとなった。

  他社の周刊少年漫画志で掲载されているような表纸および巻头でのスポーツ选手やアイドルのグラビアは、1970年代后半から1980年代前半までと、1990年代后半の一时期にはあったが、现在は载っていない。スポーツ选手の特集やインタビュー记事自体は2色の情报ページなどで现在でも行われることがある。

  现在、同志の読者构成は中学生を中心として小学生高学年から高校生が主であり、讲谈社の『周刊少年マガジン』や小学馆の『周刊少年サンデー』、秋田书店の『周刊少年チャンピオン』よりも低年齢寄りである

  歴史

  1968年创刊 - 1970年代

  创刊

  1968年创刊。创刊号の発行部数は10万5000部。当初は男気がある剧画调の作品が盛んに登场していた。

  「ハレンチ学园」・「男一匹ガキ大将」(1968年 -)等がヒット。

  1970年代前半

  1971年、発行部数が100万部を突破。 1973年8月に『周刊少年マガジン』を抜いて雑志発行部数で首位。

  「ど根性ガエル」・「トイレット博士」(1970年 -)、「侍ジャイアンツ」・「荒野の少年イサム」(1971年 -)、「アストロ球団」・「マジンガーZ」(1972年 -)、「包丁人味平」・「プレイボール」(1973年 -)等がヒット。

  1970年代后半

  ギャグ漫画分野の强化に乗り出し、その结果「1・2のアッホ!!」(1975年 -)、「东大一直线」(1976年 -)、「すすめ!!パイレーツ」(1977年 -)、「キン肉マン」(1979年 -)等がヒット。それ以外にも「サーキットの狼」・「ドーベルマン刑事」(1975年 -)、「リングにかけろ」(1977年 -)、「コブラ」(1978年 -)等がヒット。

  「こちら葛饰区亀有公园前派出所」(1976年 -)は少年漫画雑志中、最长の连载记录を更新中。1978年、発行部数が200万部を突破。

  1980年代

  1980年代前半

  1980年、発行部数が300万部を突破。少女、女性キャラクターに重きを置いた作品が多く登场する。「Drスランプ」・「3年奇面组(后の「ハイスクール!奇面组」)」(1980年 -)、「ストップ!! ひばりくん!」・「キャッツ♥アイ」(1981年 -)、「キックオフ」(1982年 -)、 「ウイングマン」(1983年 -)、「きまぐれオレンジ☆ロード」(1984年 -)など。他にも「キャプテン翼」・「ブラック・エンジェルズ」(1981年 -)、「风魔の小次郎」・「よろしくメカドック」(1982年 -)、「北斗の拳」・「银牙 -流れ星 银-」(1983年 -)等がヒット。

  1980年代中期

  この时期から漫画雑志としての侧面が强くなり、アイドル・スポーツ选手などのグラビアは掲载されなくなった。1984年1・2号より、创刊以来使用されていた志名ロゴを一新する。1985年に発行部数が400万部を突破。

  「ドラゴンボール」(1984年 -)、「魁!!男塾」・「ついでにとんちんかん」・「シティーハンター」(1985年 -)、「圣闘士星矢」・「県立海空高校野球部员山下たろーくん」(1986年 -)等がヒット。

  1980年代后半

  この顷に発売した「ファミコン」のゲーム绍介コーナーが登场。ゲーム绍介コーナーはゲーム机の主役が変わった现在でも続いている。

  「ジョジョの奇妙な冒険」・「燃える!お兄さん」(1987年 -)、「BASTARD!! -暗黒の破壊神-」・「ろくでなしBLUES」・「ジャングルの王者ターちゃん」・「まじかる☆タルるートくん」(1988年 -)、「DRAGON QUEST -ダイの大冒険-」・「**少女」(1989年 -)等がヒット。

  1988年13号で创刊号から1000号を达成し、この年に创刊20周年を迎える。さらには1988年12月の年末最终号(1989年3・4合并号)で発行部数が500万部を突破。

  1990年代

  1990年代前半

  「花の庆次」・「SLAM DUNK」・「珍游记 -太郎とゆかいな仲间たち-」・「幽☆游☆白书」(1990年 -)、「BØY」(1992年 -)、「地狱先生ぬ〜べ〜」・「NINKU -忍空-」・「とっても!ラッキーマン」(1993年-)等がヒット。

  1990年から1992年までF1チーム『マクラーレン』のスポンサーになり、巻头のカラーページに特集记事が组まれる。同时に掲载漫画にもF1を题材とした作品が数点発表される。

  1993年31号で创刊25周年を迎え、记念イベントとしてこの年の夏休みに「ジャンプマルチワールド」が东京后楽园で开催された。発行部数は1991年3・4号で602万部を突破。周刊志が全国纸の発行部数を抜いたとして一般メディアも报道する。

  1990年代中期

  1994年12月の1995年3-4号で653万部の歴代最高部数を达成する。

  「るろうに剣心 -明治剣客浪漫谭-」・「みどりのマキバオー」(1994年 -)、「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」(1995年 -)、「封神演义」・「游☆戯☆王」(1996年 -)等がヒット。

  1995年25号で「ドラゴンボール」、1996年27号で「SLAM DUNK」が连载终了。発行部数が减少に転ずる。1996年52号で「こちら葛饰区亀有公园前派出所」が连载1000回を达成する。この时期は长年行われていなかったアイドルグラビアの掲载と『爱読者赏』の复活があった。また、13年间使用した志名ロゴの変更、経済面を考虑し表纸のギミックを廃止するなどの试行错误が続いた。

  1990年代后半

  1995年から始まった発行部数减少に歯止めがかからず、1997年までに约230万部减少。10年をかけて伸ばした部数が2年で逆戻りし、1997年48号で『周刊少年マガジン』に発行部数を抜かれる。その一方で、「ONE PIECE」(1997年 -)「HUNTER×HUNTER」(1998年 -)「NARUTO -ナルト-」(1999年 -)等が新たな看板作品として登场。これらの作品は2000年代のジャンプの牵引役となり、2010年现在も连载が続いている。その他に「花さか天使テンテンくん」・「I"s」・「世纪末リーダー伝たけし!」(1997年 -)、「ROOKIES」・「ホイッスル!」・「シャーマンキング」(1998年 -)、「ヒカルの碁」・「テニスの王子様」(1999年 -)などもヒットし、部数の降下倾向は続くものの、『周刊少年マガジン』についで2位は维持。

  2000年代以降

  「BLACK CAT」・「ピューと吹く!ジャガー」(2000年 -)「ボボボーボ・ボーボボ」・「BLEACH」(2001年 -)「いちご100%」・「アイシールド21」(2002年 -)「DEATH NOTE」(2003年 -)「银魂」・「家庭教师ヒットマンREBORN!」・「DGray-man」(2004年 -)・「魔人探侦脳噛ネウロ」(2005年 -)「To LOVEる -とらぶる-」(2006年 -)「バクマン。」(2008年 -)がヒットし、连载作品の単行本売り上げは好调に推移している。

  漫画业界全体の発行部数が落ち込む中、2002年8月に『周刊少年マガジン』を抜いて再び漫画志の発行部数1位となる。この时期から志面を越えた活动が多く见られるようになる。1998年から开设した公式サイト「POP WEB JUMP」が拡张を続け「デジタルマンガ部门」が新设、サイト上で漫画を连载させるなど新しい试みが行われた。2000年からはジャンプフェスタが开催され、イベント限定グッズの贩売や连载作家を招待するなどして盛况を続けている。

  2008年34号で创刊40周年を迎え、同年48号にて创刊号から通算2000号を达成した。

  2009年4月3日から、テレビ东京系列毎周金曜日18:00~18:30に周刊少年ジャンプ・ジャンプスクエア・Vジャンプ共同のジャンプ専门情报番组「サキよみ ジャンBANG!」を放送している。

  2010年の2号で発行部数が300万部に复帰。 一部の作品でのグロテスクな表现、生命伦理上违反助长を连想させる描写が要因で、同年に行われた日本PTA全国协议会メディア调査雑志部门ランキングにより、小学馆の少女コミックを抜いて、読ませたくない雑志1位にランクインされた

  特徴

  以下に挙げられている新人契约制度やアンケートシステムに関する详细は、『少年ジャンプ』草创期に编集长を务めた西村繁男の著した书籍「さらばわが青春の『少年ジャンプ』」内に详しい记述がある。

  新人の登用と専属契约制度

  创刊以来、新人作家を积极的に登用しており、新人のチャンスが多い雑志であるといえる一方、本志でデビューした作家は必ず集英社と専属契约を结ぶ必要があり、连载が短期に终わった场合も専属契约中は他の出版社で仕事だけでなく専属契约终了后を见越した交渉をすることすらできない。各作品の栏外における「○○先生の漫画が読めるのはジャンプだけ!」などの煽り文句に、その一端が受け取れる。

  この専属契约によって漫画家には原稿料とは别に契约料が支払われているが、执笔保障がない点や専属契约期间中は他の出版社と交渉すらできない点で新人を「饲い杀し」にしているとの批判が根强く、甲斐谷忍、木多康昭、キユ(现・松井胜法)など、本志ではヒット作を出せなかった作家が他志・他社へと活动の场を移して成功した例がある。

  また1960 - 1970年代にジャンプに连载を持っていた小室孝太郎は编集部の都合で人気のあった连载が打ち切られた上、この契约を知らない间に结ばされていたために、他志で仕事をしようとしても集英社から交渉を妨害され、しばらく作品発表の场が持てなかったことをインタビューにて语っている[5]。

  本志3代目编集长だった西村繁男も集英社の退社后に出版した自著で「漫画家に対する执笔保证の项目がない他、契约期间中は他志との执笔交渉すらできないという点で、极めて编集部に有利な契约である」と、问题が存在することを认める発言をしている[6]。

  なお、この「専属契约制」は(他志で连载経験があったものの)「ハレンチ学园」でブレイクした永井豪がジャンプでの连载の傍ら他志での连载を开始したことに危机感を覚えた当时の编集长の长野规が発案したもので、同制度の适用第1号となったのは「男一匹ガキ大将」を连载していた本宫ひろ志である。

  アンケート至上主义

  一般に漫画雑志では読者アンケートを参考にして编集の方针を定めることが多いが、本志では特にその倾向が强く、人気の低下した连载作品はすぐに连载终了、つまりは打ち切りの対象にされる。

  この「アンケート至上主义」と呼ばれる体制は「アストロ球団」を连载中の中岛徳博の「大御所というだけで人気もない漫画が载っているのはおかしい。アンケートの结果を1周で出すようにして、サバイバルにせよ」という提案が発端となっている。ただし、その中岛自身「アストロ球団」以后はアンケート结果が芳しくなく、几度も打ち切りとなっている。これは作家や作品の経歴などに関系なく平等に适用され、すでに「リングにかけろ」や「风魔の小次郎」で人気作家となっていた车田正美が长期大河作品として构想した「男坂」が约半年で打ち切られた例などもある。またアニメ化やグッズ化なども行われるほどの人気を博した「圣闘士星矢」や「シャーマンキング」が、人気が落ち込むやいなや中途半端な展开で终了した例もある。

  この制度の厳しさのため、本志では10~20周前后で终了した连载作品が他志と比べ际立って多い。「地狱先生ぬ〜べ〜」の文库版において、作者の真仓翔・冈野刚がこれに対し、「アンケートの结果に基づき作品の内容を変えたり、あらゆる创意工夫が求められ、いつ连载を打ち切られるか、常に心配していた」と言及している。西村繁男は「アンケートが2位以下の作品はすべて终了候补である」とまで述べた[7]。

  ただし、连载开始直后の「キン肉マン」が、アンケート顺位が低かったにもかかわらず、低年齢层の人気が高い倾向があったため打ち切りを犹予して推移を见守った结果、后のヒットにつながるなど、単纯に数字だけを追わずに判断する例もあった。「サーキットの狼」のように、打ち切り决定后にアンケート结果が急上升したため急遽连载を続行した例や、一度は连载终了となったもののそれから数ヵ月后に连载が再开された「はだしのゲン」「ライジングインパクト」「アウターゾーン」などのような例も少数ながら存在する。「BØY」は打ち切り决定した「HARELUYA」が、后に大胆な路线変更をした结果、アンケートで急上升したためにその设定を生かして作り直されたものである。近年では、「圣闘士星矢」のようにストーリー半ばで终了した作品の「完结编」を他志に掲载した例もあり、あるいは连载终了まで一定の犹予期间を与えるなど、初期の厳しさが若干缓和された。ただし、完结编を掲载した作品は、连载终了后にメディアミックス展开の企画が持ち込まれた「武装錬金」や、作者の体调面も终了理由となった「べしゃり暮らし」(その后、周刊ヤングジャンプで不定期连载として移籍)など特异な理由がある场合で、不人気により连载终了となった场合は行われていない。

  掲载顺はアンケート结果を元に副编集长がその周ごとの雑志构成を考虑して决めている[8]。基本的には人気顺が掲载顺に直接反映され、票が多いほど志面の前面に掲载される好循环が得られるが、票が少ないほど志面の后面に掲载される悪循环となっている。だが、「王様はロバ〜はったり帝国の逆袭〜」や「ピューと吹く!ジャガー」など例外的にほぼ毎回巻末に固定的に掲载される场合や、原稿の入稿が遅れたために后面に掲载される场合[9]もある。また、アンケート结果だけでなく単に编集の方针などで掲载顺が前后する场合もある

  作品のアニメ・映像化

  现在、『少年ジャンプ』の人気作品はその大半がテレビアニメ化されている。

  だが、かつての『ジャンプ』编集部は作品のアニメ化には乗り気ではなかった。これは、现在でいうところのメディアミックス効果には懐疑的な见方をしており、(特に関东広域圏内に在住の)読者が无料で见られるテレビアニメ[11]を见て満足してしまい、雑志や単行本の売れ行きが落ちるのではないかと悬念していたためである[12]。

  転机となったのは1981年に放映が开始された「Drスランプ」のアニメ化作品「Drスランプ アラレちゃん」で、その大成功と商业的効果の绝大さを目の当たりにした事であった。この作品については在京の复数のテレビ局からオファーがあり、中でも当时编成局长[13]であった日枝久が何度も集英社を访ねたというほどの、フジテレビの热烈な要望に、最终的には集英社侧が折れる形でアニメ化を许诺したものであった。しかし、「Drスランプ」のアニメ化がもたらした雑志や単行本との相乗効果や、これに派生したキャラクター商品による著作権収入は集英社の想像をはるかに超えたものがあり、これ以后集英社は自社作品のアニメ化に积极的になった。

  しかし近年では、少子化の煽りを受けて4大キー局各局で全日帯アニメ枠は削减されており、4大キー局でのゴールデンタイム帯で放送の作品は、2006年10月に枠変更となった「ONE PIECE」が最后となった(テレビ东京を含めた场合は「NARUTO -ナルト- 疾风伝」が放送されている)。

  他志のアニメ、ドラマ化作品に比べて深夜枠で放送された作品は少なく、「HARELUYA II BØY」・「いちご100%」・「魔人探侦脳噛ネウロ」・「To LOVEる -とらぶる-」など、描写が全日帯アニメ向けではないものや、「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」・「BLACK CAT」・「DEATH NOTE」・「武装錬金」など、放送时にはすでに本志での连载が终了していた作品が多い。ただし、近年は上记の全日帯アニメ枠削减の影响もあり、内容の如何を问わず深夜枠での放送となる事も珍しくない。

  现时点では民放キー局各局で同志掲载の作品はアニメ化されている。そのうちTBSは他局と比べると极端に作品が少なく、テレビ朝日では80~90年代にかけて多くの作品が放送されたが、2000年代は2本に留まっている(2000年代では前者が「BLACK CAT」・「To LOVEる -とらぶる-」、后者が「ボボボーボ・ボーボボ」・「いちご100%」を放送)。また、テレビ东京系での放送となる作品中は「银魂」を除き2008年10月付けでハイビジョン制作に移行している。「ONE PIECE」・「家庭教师ヒットマンREBORN!」は同志连载作品では珍しく、制作局の本放送时刻が朝帯 (6:00 - 11:00) である(番组贩売・振替放送・遅れネットは除いた场合)。

  一方、全国放送の可能なNHKにおいては长年の间、ほとんど放映されず(『少年マガジン』『少年サンデー』のアニメ作品は2000年代顷からNHKにて放映されている)、2010年10月から放送の「バクマン。」が初のケースとなった(もっともジャンプ系以外の集英社作品の映像化は过去にもあり、『キャッツ・アイ』がラジオドラマとして放送されたこともある)。

  编集者

  『少年ジャンプ』の编集者は、创刊当初こそ嘱托・アルバイトなどの非正规雇用も存在したものの、现在は基本的に正规雇用(正社员)のみで构成されている。そのため集英社発行の他雑志はもちろん、総务部や人事部など全く畑违いの部署へと异动することもある。一方で『ジャンプ』系列志から全く异动がない者もおり、第4代以降の编集长は全て、入社以来一贯して『ジャンプ』系列志の编集者だった者が就任している。部署内异动や『ジャンプ』系列志相互间での异动は频繁にあり、打ち切り・新连载がなくとも、担当が変更になることも多く、结果として漫画家が困惑することもある。尾田栄一郎は「また担当交代。最低3年はやって欲しいです编集长」[14]と书いている。编集者の交替があると、漫画家がジャンプの巻末コメントで言及することが多い。

  编集者は漫画家または作品の担当を割り当てられ、その漫画家と一绪になって作品づくりを行ってゆく。编集者によっては连载作品2作品以上担当することもある。持ち込み、未デビュー、次作品制作中の漫画家も担当するため、実际はそれ以上の数を担当する。こういったことから漫画の方向性・内容にも影响を与える大きな力を持つ。『周刊少年ジャンプ』には担当编集者にすべて任せるという伝统があり、编集の方法にマニュアルは存在しない。ある漫画家を引継ぐときも、前任の编集者から今までの编集方法を指导することはなく、引継ぎも一日で终わる[15]。

  他方で、周刊连载のジャンプの漫画家の労働环境は过酷と言われるが、编集者・编集部の勤务も、上述してきた様な事情などから、多忙を极めプレッシャーやストレスも多いかなりの激务であると言われている。中でも、2003年、入社以来ジャンプ编集部一筋の编集者上がりの人物で当时『周刊少年ジャンプ』编集长の职にあった高桥俊昌が、东京湾内の船上で行われていた同志『ONE PIECE』のアニメ映画『ONE PIECE THE MOVIE デッドエンドの冒険』の制作発表会见の席においてクモ膜下出血を発症して倒れ、働き盛りの40台半ばで突然死した一件は、ジャンプ・集英社関系者のみならず読者にも少なからぬ冲撃を与えた。

  作品づくりの际に漫画家と非常に紧密な関系を筑くことから、『少年ジャンプ』の担当编集者をモデルにしたキャラクターが漫画に登场することも少なくない。実例としては「トイレット博士」のスナミ先生(角南攻)・「キン肉マン」のアデランスの中野さん(中野和雄)・「Drスランプ」のDrマシリト(鸟嶋和彦)・「シェイプアップ乱」のマッチ茨木及び「ついでにとんちんかん」の茨木氏(茨木政彦)・「银魂」の小西恒平(大西恒平)や吉沢(吉田幸司)などがある

  

参考资料:

日本传说中,茨木童子的一只手是被源赖光砍下的。

茨木童子(被称为“罗生门之鬼”),据说是日本有名的妖怪酒吞童子的手下。源赖光的家臣渡边纲,某天晚上和友人打赌能否走完朱雀大道而不会遇鬼,结果真的被茨木童子擒上了。

茨木童子幻化成一个迷路的美女让渡边纲送她回家,渡边纲上当了,在五条渡口茨木现出原形,就在抓住渡边想要杀他的时候,源赖光拔刀把茨木童子的一只手臂砍下来了,从此名刀被美名为“鬼切”。

扩展资料:

技能介绍:

1、黑焰

茨木童子以鬼气凝成黑色火焰攻击敌人,造成攻击100%的伤害。茨木童子的基本攻击技能,不需要鬼火即可发动。初始技能为一级,可使用相同式神或黑达摩进行升级,每升级一次可额外增加技能伤害5%,最高可升至五级,及125%。

2、迁怒

攻击时,若击杀非召唤物的敌人,对敌方全体造成等同过量伤害100%伤害并消耗所有的怒火;未造成击杀,则获得1层怒火,上限3层。(每层提升为3333%伤害)

3、地狱之手

茨木童子以鬼之力从地狱召唤出自己的手腕扑击敌人,造成攻击263%的伤害。

是酒吞童子。

茨木童子(被称为“罗生门之鬼”),据说是日本有名的妖怪酒吞童子的手下。而渡边纲是源赖光的家臣,他某天晚上和友人打赌能否走完朱雀大道而不会遇鬼,结果真的被茨木童子擒上了——茨木童子幻化成一个迷路的美女让渡边纲送她回家,渡边纲上当。可是最后还是渡边更胜一筹,和茨木童子战斗时拔刀把茨木童子的一只手臂砍下来了,从此名刀髭切也被命名为“鬼切”。

关于茨木童子,也是有着众多的有趣传说,在著名的谣曲《罗生门》和歌舞伎《戻桥》中 ,它都被称为「罗生门之鬼」。当然,这次的人类主角是赖光手下四天王之一的“渡边纲”。

至于茨木童子的身世,通常认为他是个弃儿。按照传说记载,其双亲乃是摄津茨木人,由于母亲怀胎超过十六个月,故茨木童子一生下来便被称为「鬼子」,并遭到所有人的厌恶。后来,他被理发店的老板收养,过了数年便长成大人的体格。

战国大名的家徽

藤原希 译

  在日本历史上发生过好几次动乱,每次都改变了历史的发展方向。特别是应仁之乱以后,一旦在人民中出现了新的领导者,就会产生新的平民制度的萌芽。但是有些地方也会发生一些以失败而告终的武装政变。但是现在的我们不仅应该研究它的发展过程,而且也应该看到其中所蕴含的以下犯上的叛逆思想。

  胜利的一方,高喊着正义,在沾满鲜血的敌人的尸体上插上自己的旗帜,炫耀着这是属于自己的世界,于是诞生了家徽。战国时代的动乱波涛侵吞了所有的一切。在产生新秩序的开端,作为新的权力的象征,首先就要提到家徽。在历史的波涛中展露头角的成功者,为了使自己正当化,编写了一套家谱,称自己是隐居的名门之后,长久以来忍辱负重,终于有了出头之日。平且还带有自己的家徽,以此来炫耀自己的家族。

  明明是假的,却仍然做的好像真的一样。作为家谱象征的家徽,毫无疑问也受到了波及,经历了矛盾和转变。家徽的数量也急剧增多。

  在战国时代,一大特征就是增加了很多威武的家徽。用威武的传说来解释新起的武士家族的家徽起源,也是家徽在创始期的一个倾向,这就好比以前用《风土记》来说明地名来源的故事一样。

  现在如果让我们仔细辨别各个战国大名的家谱、家徽的真假,恐怕已经是一件很困难的事了。就让我们抛开他们的真假虚实,从单纯的欣赏角度来看一下吧。战国大名的家徽

●葵纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/mituaoijpg]1[/img]三叶葵  本来是京都贺茂神社的标志。《家徽见闻》中写道,丹波国船井郡的豪族西田家就是使用这个标志的。在室町幕府第八代将军时、葵纹还不是徳川家的家徽。据说在古代丹波,就有了贺茂信仰,所以西田家就使用了贺茂神社的标志。图案的设计是两叶蜀葵。三河地区的土豪松平,伊奈家等周边地区的豪族的家徽发展很发达,是因为加茂郡在奈良时候就有神户了,所以从很早开始就流行贺茂信仰。葵纹也就成为了祭祀同一个神灵的豪族的共同家徽。庆长16年,葵纹才开始成为德川家特有的家徽。●稻纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/km_suzujpg]17[/img]抱稻

根据《长仓追罚记》记载,熊野的神官铃木家用的就是这个家徽。自称是宇多源家的龟井家(津和野藩的主家)据说出生于济州熊野的穂积家。

●井栏/井柱

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/ii-igetajpg]14[/img]平井栏

《文正记》里写到,甲斐家是用这个家徽的;《家徽见闻录》里是写石井家和长井家用该家徽。但是大家比较熟悉的是,离开远江成为彦根藩主的井伊家使用该家徽。无论哪个,都是将“井”这个字图案化,因此具有一定的标识含义。在战场上作为旗帜,让人一目了然,很容易分辨。

●马纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/umajpg]27[/img]《拴着的马》

在《家徽见闻》中,贽川家和平野家使用的家徽就是「脱缰的马」。平将门的后裔相马家,离开了下総的相马把家移到了陆奥德相马郡,专做饲养放牧马群的工作。相马家用的就是《栓着的马》。

●梅花纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/maedajpg]18[/img]梅花纹

梅花纹作为前田家的家徽广为人知。最初是从六曜花纹转变成天神花纹,在利家晚年时,变成了带茎的梅花花纹。包括第三带利常,为了分别本家和其他的分支家,就出现了剑梅纹,丁字梅纹等。大和的筒井家因为信仰天神,所以也使用梅花纹家徽。

Part2

●鳞纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/3_urokojpg]7[/img]圆圈加上三片鳞

这个家徽作为镰仓幕府将军北条家的家纹,而十分有名。在战国以前,《蒙古来袭故事画》中就出现了鳞纹。前北条氏灭亡后,伊势新九郎进入小田原,自称为北条早云。这以后,后北条氏一族就一直沿用这个家徽,进一步得到了扩充。

●泽泻纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/1omodakajpg]3[/img]立着的泽泻纹

在《家徽见闻》中,越中松仓城主椎名家就使用该图案。丰臣秀吉的马标很有名。据说是因为出生于木下家。木下的亲戚福岛正则也是使用立着的泽泻纹。还有作为大名的毛利、水野、土井、浅野、奥平、酒井等都是使用该家徽的。这里还有个很有名的故事,据说中国的战国武将毛利元追击敌人来到河边,看到水边长着泽泻,蜉蝣就停在泽泻边,于是他鼓励士兵“胜利的草旁边有胜利的虫子”,结果大获全胜。

●构木叶子花纹[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/km_suwajpg]16[/img]构木叶子

作为诹访明神的代表花纹十分有名。在《羽继原战役》中,信州信州诹访付近的豪族下条、山边就是用这个家徽。而神官出生的梶、神、祝、金刺、矢守、茅野氏等用的也是这个花纹。后来武田信玄消灭了出生于大祝的诹访。但不久之后诹访一族通过和徳川家的友好关系重新回到诹访高岛城。所领土地三万七千石。

●柏纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/3_kasaijpg]5[/img]圆圈加上三片柏树叶子

在《家徽见闻》中,以热田大官司的千秋家为首,宗像大官司氏乡,神谷,雀部、尾林、竹内、山内、水原、朝日等都是使用该家徽。在《土佐山内系图》中写到有关山内家家徽的来历,一丰的父亲盛丰是归属于织田家,在丹波之战时用柏树枝作为旗帜奋勇战斗,到胜利的时候,树枝上只剩下了三片叶子,所以用三片柏树叶子作为家徽。其实山内一门的柏纹的来源更古老。在《别本山内系图》中写到,在足利义満和远祖山内猪右卫门开战的时候、就已经有柏树的旗帜了。奥羽的葛西一族也是使用三叶的柏纹。

●酢浆草纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/katabamijpg]15[/img]酢浆草

《家徽见闻》中,小田又次郎知宪、肥田助太郎政秀、中沢、多贺、赤田、平尾、长宗我部等是用这个花纹的。战国以后出现了“剑酢浆草”,它是在三片叶子中加上剑,表示崇尚武学。属于德川一边的酒井、森川也是使用该家徽的。

●唐花菱纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/mr_hisijpg]21[/img]圆圈加上唐花菱

《相国寺供养记》中,记载着武田信在在红色的武士礼服上绣上交叉的菱的花纹。在《长仓追罚记》中、大内介用的是唐菱。甲斐武田和若狭的守护用的是武田菱。菱鹤使用南部纹。坂西是圆圈加上松川菱。赤泽是松皮菱加上十字形。远州の小笠原也是用松皮菱、武田家的菱纹就成为各种菱纹的基本来源。『家徽见闻』中武田家使用松皮菱、唐花菱。小笠原氏使用三阶菱。大内氏用唐花菱。秋山氏使用松皮菱。

part3

●雁纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/hana_kmjpg]12[/img]尾部相连的雁

《家徽见闻》中,井上右京亮贞忠用的是两只远雁。使用交叉的远雁的是小串家、进藤家、阿波的大西家。菊水(菊水:家徽的一种,水上浮着半朵菊花)加上二只远雁是大芋家的家徽。笹龙胆加上二只远雁是和州越智家的家徽。圆圈加上三只远雁是高宫家的家徽。在框里面有一只远雁是高安河内入道永隆和饭尾左卫门大夫之种。在『永仓追罚记』中、远雁是安部家的。水加上雁是小串五郎家的家徽。在信州、由于滋野家的影响海野、望月、祢津、真田氏等用的都是雁纹。同样的在信州、还有井上、赤井、上林、山口氏等也是用雁纹。

●桔梗纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/1_kikyojpg]2[/img]桔梗

就如同人们所说的「土岐的桔梗武装起义」一样、团结在桔梗这个家徽下的土岐一族在美浓很有影响力。『家徽见闻』中也很清楚地记载了土岐家的存在。打倒织田信长的明智光秀、秀吉手下十分忠诚的加藤清正等都是土岐一族。而相模的太田家虽然来自多田家,但家徽是桔梗纹。太田道灌十分有名。他的后代重正替德川家康做事、后来封得远江挂川五万二千石。

●杏叶纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/2_gyoyojpg]4[/img]圆圈加上两片杏叶

『家徽见闻』中、大友豊後守亲繁、摂津修理大夫之亲、田村、安芸的毛利氏(代替原来的家徽)、饭河远江守、崎和筑前守等,图案都是杏叶纹。近江的目贺田家是三片盛杏叶。芸州的厳岛氏、大野氏、温科氏等是杏叶九曜。大友氏虽是相模出身的豊後守护、但是这个家徽也会赐给那些和自己一族的人以及有力的家臣们。立花氏和大友一族使用相同的家徽。元亀元年龙造寺氏打败了大友宗麟,将杏叶纹作为自己的家徽。后来,重臣锅岛氏打败了龙造寺氏,开始使用杏叶纹。

●桐纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/57kirijpg]10[/img]五七的桐

足利尊氏得到後醍醐天皇的封赐后、足利幕府以同一族的吉良、一色为首、以及以管料的畠山、细川家为首,拥有功勋的三好义长、松永久秀、上杉谦信、大友宗麟等也受到了封赐,使用该家徽。最後的将军足利义昭也仿照前例、赐给了织田信长,信长也同样的赐给了秀吉和家康,由此感到自己的优越感。所以从这点上来说,家徽的作用就好像现在的勋章。

●军配団扇纹

(军配団扇:古时大将指挥军队用的指挥扇)

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/utiwajpg]28[/img]军配団扇

在『家徽见闻』中、使用这个家徽的有粟生田次郎左卫门尉経行、矢岛、真下、富田家等等。他们都是以武蔵为中心来自儿玉党。三河出身的奥平氏也可以说是来自于児玉党、用的是军配団扇纹。

●洲浜纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/suhamajpg]23[/img]洲浜

(洲浜:沙洲变大,海岸线曲曲折折的海滨)

『长仓追罚记』中、常陆都宫氏族的小田的大辅使用这个家徽、『见闻诸家纹』中、以安芸的宍戸氏为首的陶山氏、越智氏族的寺町氏和伊庭氏、茨木家使用该家徽。云州佐々木的吉田氏用的是三个盛洲浜纹。松代的真田氏是一个洲浜纹。

Part4

●鹰的羽毛纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/takahanejpg]24[/img]交错的鹰的羽毛

『家徽见闻』中、町野左近将监敏康使用栏干状圆圈加上鹰的羽毛、菊池家用的是并排着的鹰的羽毛。後藤左京亮用的是交错的鹰的羽毛、美马家用的是鹰的羽毛加上二个引両(引两:家徽的一种。在圆圈里有一到三根粗的横线。新田氏、足利等的家徽。有的引两也会没有圆圈或者再加上竖线)、稲毛家用的是三根鹰的羽毛。摂州的太田家是一个引両加上交错的鹰的羽毛、加州的仓光氏是五根鹰的羽毛、中村家是圆圈加上交错的鹰的羽毛、福井家是交错的鹰的羽毛。在『长仓追罚记』只有菊池用该家徽。戦国末期,土岐氏族的浅野家用的是交错的鹰的羽毛。

●竹、竹加上雀纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/uesugijpg]26[/img] 竹子加上雀

家徽见闻』中、朝仓下野守用的是竹子围成的圆圈加上亀甲、粟饭原家用的是

三根竹子、上杉家、箸尾藤徳丸用的是竹子的圆圈加上雀、河村家用的是交错的竹子、明石越前守、上神、大鸟等用的是竹子的圆圈加上桐。竹加上雀这个家徽,从上杉家传到了长尾、伊达家。伊达家は后来又和最上家一起使用这个家徽。

●橘纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/tatibnajpg]25[/img]橘

在『家徽见闻』记录的时候(从応仁末年(1468)到文明二年(1470))、武家中不太看到用这个家徽的。薬师寺扫部助元隆用三个橘纹、小寺藤兵卫尉使用三个橘加上藤巴(藤巴:藤纹的一种。)。在戦国末期显露锋芒的井伊家用的橘纹十分有名。据说山中鹿介也想使用橘纹。

●长春藤纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/marututajpg]19[/img]圆圈加上长春藤

在『家徽见闻』中椎名、富田、高安河内入道永隆等使用这个家徽的。在戦国末期开始显露锋芒的六郷、藤堂也是用长春藤纹、徳川一族的松平诸家大都使用长春藤纹。但是,以応仁之乱之前的战役为素材的『永仓追罚记』里却没有长春藤纹的记载。以前、人们觉得长春藤是葡萄的叶子、这个想法很奇怪,而且理由不明。在我看来、足利家赐给大臣们桐纹时、逐渐不是直接的封赐桐纹,而是大都带着派生的含义、或者封给家臣时,花纹就变成了枝条状,这是为了防止桐纹的泛滥而想出使用另一种花纹。也就是由于敬畏地位高的家族、所以去掉桐纹的花只留下了下面的叶子部分、将那部分变成叶子状、桐纹就变成了长春藤纹。这其中也包含着不开花的谦让精神。于是那些家谱中末梢的家族就获得了这样的家徽。

●鹤纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/rokkakujpg]22[/img]成丸状的鹤

在『家徽见闻』中、楢叶左京亮是对立站着的鹤、佐脇五郎明房是在在云月下跳舞的鹤、波々伯部彦次郎贤豊是在吃松的鹤、大和氏、远江的蒲生氏是二个引両加上对立站着的鹤、石川氏是在飞翔的鹤。在『永仓追罚记』中,高井左卫门尉是松加上鹤、南部家是菱鹤、近江御门的后裔葛山备中是在庵内面对面的鹤。戦国末期、诹访家和森氏使用成丸状的鹤纹。

●巴纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/3_tomoejpg]6[/img]三个巴

是古代从大海的另一边传过来的花纹。在『家徽见闻』中、曽我家用的是云加上左三个巴、赤松兵部少辅是二个引両加左三个巴、宇都宫家是右巴、小山家是左巴、杉原家是角巴、香河五郎次郎和景、越後的长尾家是九曜巴、山田道祖千代丸是鳞巴、丸豊前七郎朝达是三个盛巴、芝山三河守持嗣是三个堆积起来的巴、山下左京亮是桝形加上右三个巴、金山家是一个引両加上并排的巴。还有作为厳岛、大野、温科家的代替家徽,有右三巴。巴纹是八幡宫的神纹、而八幡宫是以供奉武神而出名的,因此在武家社会巴纹就很盛行了。

●引両纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/hatakejpg]13[/img]圆圈里二个引両

二个引両是足利家的代表纹。据说引両纹是从幕纹转变过来的、但是有关它的起源却不是很清楚。『家徽见闻』中、吉良、渋川、石桥、斯波、细川、畠山、上野、一色、山名、新田、大馆、仁木、今川、桃井、吉见氏等一族以及官僚成员等使用的就是该家徽。而赤松、三浦介、远山、富永、长野、庄、吉川、波多野、神保、三渊、蜷川、川原、中沢、饭川、安木、大和、绮(Kawata)、黒坂、平尾、金山、物部、矶谷、三木、西面氏等武将使用的是引両纹和其他花纹的组合。\n

●藤纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/dn_huzijpg]11[/img]向下成圆形的藤

自称为藤原庶子的武将家徽。加藤、佐藤。斎藤、近藤、首藤、进藤、武藤、尾藤、後藤…等庶子家使用该家徽。『家徽见闻』中、讃岐的大野家、摂津的伊丹家、河内的由佐家、美浓的伊贺家、播磨的小寺家、近江的箕浦家使用这个家徽。『永仓追罚记』中、用这个家徽的是越中的神保家、三河的铃木家等。

●三个星纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/3hosi_1jpg]8[/img]三颗星加上一字

三颗星指的是大将军星、左右将军星。所以作为三武、武神被信奉。“一”这个字在日语中读“カツ”(和“胜利”同音),所以被是武威的象征。『家徽见闻』中、用这个家徽的有本郷家、渡辺家、飨庭家。一字三颗星的、有长井、毛利、竹藤、萩、绮家。三颗星加上吉字的有毛利家。三颗星加上一字的是、渡辺、曽祢崎家。

●目结纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/4_meyuijpg]9[/img]立着的四个目结

作为近江佐々木一族的代表家徽而十分有名。『家徽见闻』中、佐々木大膳大夫入道生観是四个目结。二松、饭田氏是三个目结。本庄家是九个目结、武藤左京亮信用是靠着的目结、椎屋家是四个目结、本间家是十六目结、能势家是圆圈加上十二目结纹。据说是佐々木家后裔的宇多源家的武将京极、建部、亀井家等也是四个目结。越中佐々家是滋目结。

●木瓜纹

[img= http://www2harimayacom/sengoku/buke_km/sorce/ml_mokoujpg]20[/img]圆圈加上横木瓜

木瓜纹原本是从大海的另一边传过来的贵族家徽、但是在武家社会很普及。作为织田信长的家徽而十分有名、原来是朝仓家的陪臣的家徽。因此朝仓家也用这个家徽。『家徽见闻』中、富永家是木瓜加上二个引両、尾张守政长的被官游佐河内守是六个木瓜、海老名与七政贞是二个木瓜加上庵、岩城中务丞宗直是排列着的木瓜,宫家、大平家是五个木瓜。八木家、大田垣家、池田充正是四个木瓜。三木家是三个盛木瓜加上二个引両。

注:

文中所写的《家徽见闻》(日语中称『见闻诸家纹』)、也可称为「「东山殿御纹帐」、收录了室町幕府八代将军足利义政时各将军家、以及从守护大名到一般百姓的各个家徽,大约有260种,是研究武家家徽不可或缺的历史资料。

『永仓追罚记』也称为『羽継原合戦记』。据说它是以『永仓状』为基础写的,但是『永仓状』中没有记录家纹。但是有关家徽武将名等方面、『永仓追罚记』比不上『见闻诸家纹』、但是它所记录的内容基本都是正确的、因此暂定为参考书籍。原文链接: http://wwwribenshicom/wenzhang/zhu/zhanguoshidaijiahuihtml收藏 分享 0 0 0 支持 反对

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